混ぜられない色
全盲の人は、赤と黄を混ぜればオレンジになるという法則を知っていても、それを感覚として受け入れられない。混色が理解できないのはなぜか。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を起点に、目と耳のセンサー構造の違いから、見える人もまた色そのものには触れていないことを辿る。
「私の好きな色は青」。全盲の人からそう言われて、伊藤亜紗はかなり驚いたという。生まれてから一度も物を見たことのない人が、なぜ色に好みを持てるのか。聞いてみると、その人は色そのものを好きなのではなかった。青という色をしている物の集合を覚え、そのまとまりに愛着を寄せていた。色は、物を経由して間接的に手に入れられていた。
同じ人が、どうしても納得できないと言ったことがある。混色である。赤と黄を混ぜればオレンジになる。絵の具が混ざるところを見たことのある人なら、体で知っている法則だ。ところがその人にとって、色を混ぜるのは「机と椅子を混ぜるような感じ」で、どうも腑に落ちないらしい。赤+黄=オレンジという式は言葉として覚えられる。それでも、感覚としてはついていけない。
この一点に、知覚のからくりが凝縮している。全盲の人は色を、赤なら「りんご・郵便ポスト・トマト・くちびる」といった物の集合として学ぶ。赤は温かい気持ちになる色で、黄色は「バナナ・踏切・卵」が属し、黒と組み合わせると警告になる色だ。集合の名前としては完璧に機能する。だが集合と集合を足し合わせても、新しい集合は出てこない。りんごとバナナを混ぜたら何色か、と問われても答えようがない。色が、足したり掛けたりできる独立した量として扱われていないからだ。
01色を、物で覚える
ここで立ち止まってみたい。混色を「理解できない」のは、見えない人の側の欠落なのだろうか。混ぜられると知っている私たちのほうが、色を正しく捉えている――そう考えたくなる。
けれど、混色が成り立つとき、色のあいだで実際に何が起きているのかを、見える人はどれだけ知っているだろう。赤い絵の具と黄の絵の具を混ぜてオレンジができる。その現場で混ざっているのは、色ではない。顔料の粒子であり、粒子が反射したり吸収したりする光の波長だ。私たちは波長が混ざった結果を「オレンジ」という一つの感覚として受け取っている。混ざっているものと、混ざったと感じるものは、別の層にある。
02目は波長を捨てている
光は、波長の違いとして連続的に広がっている。可視光だけでも、およそ四百ナノメートルの紫から七百ナノメートルの赤まで、切れ目なく続くグラデーションだ。この連続した情報を、人間の目はほとんど捨てている。
網膜にある色の受容器は、わずか三種類しかない。おおよそ短い波長・中くらいの波長・長い波長に反応する三つの錐体細胞で、脳はこの三つの反応の比率だけから色を組み立てる。トマス・ヤングが十九世紀初めに着想し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツが精密化した三色説の骨格だ。連続する波長のスペクトルは、入口の時点で三つの数字に圧縮される。
圧縮の代償が、混色という現象そのものになる。三つの数字に丸めてしまうと、もとの波長の組み合わせが違っても、同じ三つ組に落ちる光は同じ色に見える。単一の黄色い光と、赤と緑を重ねた光は、物理的には別物なのに、目には見分けがつかない。条件等色と呼ばれるこの現象は、目が波長を保存せず、比率だけを残す装置だからこそ起きる。
身近な証拠が手のなかにある。スマートフォンやテレビの画面は、赤・緑・青の三つの光だけで、あらゆる色を映し出している。夕日のような連続したスペクトルは一度も出していないのに、私たちはそこに黄色も水色も橙も見てしまう。三原色で足りるのは、受け取る目がはじめから三種類しか持たないからだ。三つで送れば、三つで受け取る目はだませる。混色とは、目が情報を捨てた場所に咲く副産物であって、全盲の人が混色を受け入れられないのは、彼らがこの「捨てる装置」を通していないからにすぎない。
03耳は、捨てない
音を担う器官は、まるで逆の設計になっている。
内耳の蝸牛は、入ってきた音を周波数ごとにほどいてしまう。低い音は奥まで、高い音は入口近くで基底膜を大きく揺らし、どの高さの音かが振動の場所として書き分けられる。ゲオルグ・フォン・ベケシがこの仕組みを実証し、1961年にノーベル賞を受けた。目が三つに丸めるのに対して、耳は数千の受容細胞で周波数の並びをそのまま保っている。捨てずに、分解する。
だから二つの音を同時に鳴らしても、それらは混ざって別の一音になったりしない。近い高さの音を重ねれば、周波数の差がそのまま「うなり」として聞こえ、ずれが大きければ不協和の濁りになる。和音は、あくまで複数の音として耳に届く。オレンジのように、二つが溶けて第三のものに化けることがない。
オーケストラの厚い響きのなかから、一挺のバイオリンの旋律を耳がすっと拾い出せるのも、この分解のおかげだ。周波数を並べたまま保っているから、束のなかの一本を選び直せる。目には、この芸当ができない。赤と緑の光をいちど重ねられてしまえば、もとの二色を取り出すすべはなく、黄色としか受け取れない。色には混色があり、音には混色がない。この差は、波としての光と音の違いというより、波を受け取る目と耳の構造の違いから来ている。片方は情報を捨てて三つの数字にし、片方は捨てずに並べておく。混ぜられる色と、混ぜられない音を分けているのは、世界の側ではなく、受け取る側だ。
04離散はどこから来たか
すると今度は、逆の思い込みが揺らいでくる。音は混ざらず、一つひとつ独立している。だからドレミのように、はっきり区切られている――そう感じるのは、どこまで本当なのか。
音の高さそのものは、周波数として連続している。ドとレのあいだにも、無数の高さが詰まっている。それを十二の階段に割ったのは平均律という取り決めで、一つの発明にすぎない。インド古典音楽やアラブ音楽のマカームは、その階段のあいだの微分音を積極的に使う。ブルースのブルーノートは、鍵盤の隙間を滑り落ちる音として響く。バイオリンやトロンボーン、そして人の声は、そもそも階段を持たず、高さのあいだを連続して行き来できる。音が離散して聞こえるのは、離散した音しか出せない楽器で音楽を考えたときの見え方であって、音そのものの性質ではない。
05色の切れ目
では色のほうは、完全に連続で、区切りのない虹のままなのか。ここも単純ではない。
言語学者のブレント・バーリンとポール・ケイは、1969年の研究で、世界中の言語がどんな色の名前を持つかを調べた。すると基本の色名が増えていく順番に、驚くほど共通したパターンが見つかった。はじめは明暗の二語しか持たない言語も、色名が増えるときはまず赤を切り出し、その次に黄か緑、それから青へと進む。文化や語族の壁を越えて、似た順序で色が名づけられていく。この背後には、赤と緑・青と黄・白と黒を対にして処理する反対色の仕組みがある。エヴァルト・ヘリングが唱えたこの生理的な下地が、どの文化でも似た切れ目を用意しているらしい。色の区切りは、まったくの気まぐれではない。
同時に、言語の側が知覚を押し返す例もある。アマゾンのピダハンの言葉は、色を独立した単語ではなく「血のような」といった比喩で言い表すと報告されている。ダニエル・エヴェレットの記録だが、その解釈には強い反論もあり、決着はついていない。それでも、色の切り分けが生理だけでも文化だけでも決まらない、その綱引きの只中にあることは見えてくる。イヌイットの言葉には雪を表す語が百通りある、という有名な俗説が誇張として崩れたのとは違って、ここには実際の観察の重みがある。
06見える人も、色を知らない
全盲の人が混色を理解できないという話は、はじめ、感覚が一つ欠けた人の不自由として聞こえる。だが辿ってみると、話の重心はずれていく。彼らは色を、物の集合として、いわば正直に扱っている。足し算できない集合どうしは混ざりようがなく、混色を受け入れられないのは理屈としてどこまでも筋が通っている。
むしろ説明を要するのは、私たちのほうだ。混ざるはずのない波長の束を、目という三つきりの受容器がひとまとめに丸め、余りを切り捨て、そうして初めて「オレンジ」という滑らかな一色が立ち上がる。混色を感じられるのは、優れた能力というより、装置が粗いことの裏返しかもしれない。それを捨てたあとに脳が組み立てる幻を、私たちは色と呼んでいる。
出典
一次資料
- 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書、2015年)。全盲の人の色概念・混色の逸話、および「机と椅子を混ぜるような感じ」の記述は同書による。
- Brent Berlin, Paul Kay, Basic Color Terms: Their Universality and Evolution(University of California Press, 1969)。基本色彩語の出現順序に関する普遍的パターン。
- Daniel L. Everett,「Cultural Constraints on Grammar and Cognition in Pirahã」(Current Anthropology 46巻4号、2005年)。ピダハンの色語彙・数概念の報告。同論文への反論として Andrew Nevins, David Pesetsky, Cilene Rodrigues「Pirahã Exceptionality: A Reassessment」(Language 85巻2号、2009年)。
補足資料
- 三色説(ヤング=ヘルムホルツ)および条件等色については視覚科学の標準的記述による。反対色過程はエヴァルト・ヘリングの提唱。
- 蝸牛の周波数分解(場所説)とゲオルグ・フォン・ベケシの業績。ノーベル生理学・医学賞(1961年、蝸牛内の刺激の物理的機序の発見)。The Nobel Prize(https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1961/bekesy/facts/)。
- 平均律・微分音・ブルーノートに関する記述は音楽理論の一般的知見による。「イヌイットの雪語彙」俗説の検証は Geoffrey K. Pullum『The Great Eskimo Vocabulary Hoax』(University of Chicago Press, 1991)。