坂道と、山の斜面
――目の見えない人は世界をどう見ているのか
同じ坂道を並んで下りながら、見える人と見えない人は、まったく違う世界を歩いている。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を手がかりに、視覚に頼らない空間認識と、知覚がつくる座標系について考える。
01坂道と、山の斜面
著者・伊藤亜紗は、全盲の木下さんと大岡山を歩いていた。一五メートルほどの緩やかな坂道を下っていたとき、木下さんがふと言った。
「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」
著者はこれにかなり驚いたという。毎日のように行き来していたその道を、著者は「大岡山駅」という出発点と「西9号館」という目的地をつなぐ道順の一部としてしか認識していなかった。曲がってしまえばもう忘れてしまうような、意味的にも空間的にも他から分節化された「部分」でしかなかったのだ。木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で、空間全体をとらえるイメージだった。
街も山も海も、本来は地続きだ。けれど「大岡山」という名前をつけた瞬間、わたしたちはその地続きの地形を忘れ、分離してしまう。著者は続けてこう書いている。
「人は、物理的な空間を歩きながら、実は脳内に作り上げたイメージの中を歩いている。私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。」
02「脳の中にはスペースがある」
なぜ木下さんは、坂を「山の斜面」として認識できたのか。木下さん自身の説明が興味深い。
「たぶん脳の中にはスペースがありますよね。見える人だと、そこがスーパーや通る人とかで埋まっているんだけど、ぼくらの場合はそこが空いていて、見える人のようには使っていない。でもそのスペースを何とか使おうとして、情報と情報を結びつけていく」
見える人は、坂だという事実だけで気を取られてしまう。周囲の風景、空の色、遠くに見える建物――そうした視覚情報の処理に、脳のリソースの多くが割かれているからだ。一方、見えない人は、足で感じる「斜面を下っている」という乏しい情報を手がかりに、なぜそうなっているのかを考えていく。情報が少ないからこそ、意味づけに向かう余白が残っている、という逆説がここにある。
03視覚という支配
人間の感覚のうち、視覚が占める割合はおよそ8割と言われる。全盲の人には、この大量のインプットがない。見える人は外空間の認識のほとんどを視覚に頼っているため、思考そのものも視覚を土台に組み立てられがちになる。聴覚が視覚の届かない範囲を補い、視覚と聴覚を合わせるとおよそ9割を占める。身体感覚は、無意識のうちにバランスや姿勢を精緻に把握してはいるものの、意識にはほとんど上ってこない。
この構図は、分離脳研究で語られる左脳インタープリターの働きとも重なって見える。右脳が起こした行動に対して左脳が後から意味づけをするように、脳は「いま手元にある情報でそれらしき意味を見出し、それを真実とする」という癖を持っているのかもしれない。
04四十八歳で得た奥行き
本書には、神経生物学者スーザン・バリーの事例も紹介されている。斜視のため両眼立体視ができなかったバリーは、四十八歳のとき、特殊な訓練によって初めて立体視能力を獲得した。
「空間の中にテーブルや椅子があり、その同じ空間に自分もいる。『自分がちゃんと世界に存在している感じ』を、バリーは四十八歳にして初めて手にいれたのです。」
それまでのバリーの情報処理は「部分の積み重ねの結果、全体を獲得する」というものだった。立体視ができるようになったことで、「まず全体を把握して、全体との関係で細部を検討する」という思考法が可能になったという。視覚の能力が、思考の様式そのものに影響を与えていたことになる。
私が情報を使っているのか
情報が私を使っているのか
05座標系という補助線
大岡山のエピソードとバリーの経験を並べると、ひとつの補助線が引ける。認知科学でいう、エゴセントリック座標系とアロセントリック座標系の対比だ。
Egocentric
エゴセントリック座標系「自分の目からどう見えるか」を基準にした座標系。著者にとっての大岡山は、駅から目的地までをつなぐ、自分視点の道順だった。
Allocentric
アロセントリック座標系モノとモノの関係そのものを、絶対的な座標として捉える座標系。木下さんにとっての大岡山は、土地そのものが持つ客観的な形だった。
本書はこの構図を、次のように言い切っている。
「見えない人は、物事のあり方を、『自分にとってどう見えるか』ではなく『諸部分の関係が客観的にどうなっているか』によって把握しようとする。この客観性こそ、見えない人特有の三次元的な理解を可能にしているものでしょう。」
視点という概念を持たずに空間を組み立てると、モノとモノの関係そのものから世界が立ち上がってくる。3DCGにたとえるなら、カメラ座標系(ビュー空間)ではなく、ワールド座標系で世界を記述しているようなものだ。
06色という間接知識
本書でもうひとつ印象的なのは、色についての章だ。物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがある。
「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。
赤という色は、次のような集合として学習される。
色そのものではなく、色がついた物の集合を経由して、色の概念が間接的に獲得されている。だからこそ、混色――赤と黄色を混ぜるとオレンジになる、という体験――は理解が難しいという。色を独立した変数として扱っていないのだから、「りんごとバナナを混ぜたら何色か」という問いは、そもそも成立しないのだ。
07俯瞰は、視点の外にある
見える/見えないを、情報の多寡の問題としてだけ捉えると、この本の面白さは半分しか汲み取れない。大岡山のエピソードが教えてくれるのは、情報が少ないことが、必ずしも理解の貧しさに直結しないという事実だ。視点を持たないからこそ、モノとモノの関係そのものから世界を組み立てる思考の様式がある。俯瞰とは、視点を積み重ねた先にあるのではなく、そもそも視点の外にあるのかもしれない。
出典
書籍
- 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書、2015年) 本文中の引用はすべて本書による。木下さん・スーザン・バリーのエピソードも同書所収。
- スーザン・バリー『視覚はよみがえる』(筑摩選書) 本書中で紹介される、四十八歳で立体視を獲得した体験の原典として言及。