異界はなぜ夜市に立つのか
——境界の時間帯という民俗学的装置

逢魔が時、丑三つ時、辻、橋。人が異界と接すると信じてきた場所と時間には、一つの共通する論理がある。ファン・ヘネップの「敷居」を手がかりに、空間の境界と時間の境界を往復して読む。

恒川光太郎の『夜市』には、迷い込んだら買い物をしないと出られない市が出てくる。少年は幼い日、弟を売ってその市を出た。何でも買えるが、対価を払わなければ帰れない。読み終えてしばらく、なぜあれが「市」でなければならなかったのかが気になっていた。異界の入り口なら、館でも森でも洞でもよかったはずだ。それが屋台の並ぶ市であること、しかも夜に立つこと。この二つがなぜ異界の入り口にふさわしいのかは、民俗の古い理屈をたどると見えてくる。

市は、しばしば境界に立った。中世の市は河原や寺社の門前、交通の要地といった、誰の支配にも属さない場所に開かれる。歴史家の網野善彦は『無縁・公界・楽』で、そうした場を世俗の縁から切れた「無縁」の領域と呼んだ。市がにぎわうことは、境界であることと矛盾しない。むしろ日常の秩序の外にあるからこそ、非日常のにぎわいが許された。夜に立つ市は、その記憶を時間の側からもう一度なぞっている。

場所のあいだと、時刻のあいだ。日本の民俗学は、この二つを同じ論理で——どちらも「この世とあの世の境が薄れる地点」として——並べて扱ってきた。だから異界が「どこに現れるか」と「いつ現れるか」は、ほとんど同じ問いになる。境界という一点を、空間から見るか時間から見るかの違いにすぎないからだ。

01辻に立つもの

村の境、道の分かれる辻、川を渡す橋、山を越える峠。民俗学がくり返し注目してきたのは、こうした「あいだ」の場所だ。そこには道祖神が据えられ、地蔵が立ち、ときに妖怪が現れるとされた。小松和彦が編んだ『怪異の民俗学』の一巻はまるごと「境界」に充てられていて、村境や辻といった空間のあいだと、薄明や深夜といった時間のあいだが、同じ論理のもとに並べられている。

なぜあいだなのか。村の内側は既知で、名前がつき、誰のものかがはっきりしている。村の外は他界で、死者や異人や獣の領分だ。その二つが触れ合う一線だけが、どちらにも属さない。だからこそ、供養もそこで手向けられ、災いもそこで食い止められる。橋のたもとに祠があり、峠に石仏が並ぶのは、そこが両側の世界をつなぐ細い一本道だからだ。道祖神はまさにこの役目を負っていた。村境や辻に据えられ、外から来る疫病や悪霊を追い返す番人であり、同時に旅立つ者を送り出す見送り役でもある。塞ぐ神が、通す神を兼ねている。この一体二役こそ、境界という場所の性格をそのまま彫り込んだものだ。

境界は、通り抜けるための場所であると同時に、通り抜けを見張る場所でもある。祀りと畏れという相反する働きが、そこでは同じ一点にそろって宿る。この奇妙な二重性を覚えておいてほしい。時間の側でも、まったく同じことが起きるからだ。

02誰そ彼の時刻

夕暮れの薄明を、日本語は逢魔が時と呼ぶ。魔に逢う時、という当て字が示すとおり、災いや妖怪に遭いやすいとされた時間だ。語源としてよく持ち出されるのが「誰そ彼」——薄暗がりで人の顔が見分けられず、そこにいるのは誰だ、と問う言葉である。この語源説は広く流布しているものの、民俗学の一次文献まで遡って裏づけたわけではないので、ここでは断定しないでおく。ただ、たそがれという音がこの呼びかけから来ているという直感は、経験によく合う。見えるはずのものが見えなくなる時間帯が、そのまま「何が起きるかわからない時間」として畏れられた。

深夜には丑三つ時がある。十二時辰でいう丑の刻をさらに四つに割った三つ目、およそ午前2時から2時半。草木も眠る、と形容されるこの時刻が怪異と結びついたのは、単に暗く静かだからだけではない。陰陽の考えでは夜は陰の気が満ち、真夜中にその極を迎える。しかも丑と寅のあいだの方角は鬼門にあたる。時間の底と、忌むべき方角。二つの境が重なる一点として、この時刻は選ばれている。ここでも、時間の境界と空間の境界が手を取り合っている。

薄明と深夜。この二つに共通するのは、昼でも夜でもない、あるいは夜のなかでも今日でも明日でもない、宙づりの質だ。時計の上では一瞬でも、体感のうえでは、そこだけ時間の帰属が曖昧になる。

SPACE

空間のあいだ

村境、辻、橋、峠。どちらにも属さない一線に、道祖神と畏れが宿る。

TIME

時間のあいだ

逢魔が時、丑三つ時。今日にも明日にも属さない宙づりが、怪異の時刻になる。

03敷居という発明

なぜ、どっちつかずの一線に畏れが宿るのか。この疑問に最初の枠組みを与えたのが、フランスの民族学者アルノルト・ファン・ヘネップだった。彼は1909年の『通過儀礼』で、人が一つの状態から別の状態へ移るとき、儀礼がきまって三つの段階を踏むことを見抜いた。まず古い状態から切り離される分離、次にどちらでもない過渡、最後に新しい状態へ組み込まれる統合。真ん中の過渡を彼はリミナルと呼んだ。ラテン語の limen、すなわち敷居に由来する語だ。

I

分離

古い状態から切り離される。子どもの世界から引き離される、など。

II

過渡(リミナル)

どちらでもない宙づり。名も役割も持たない期間。

III

統合

新しい状態へ組み込まれる。大人として村へ迎え入れられる、など。

敷居は、部屋の内でも外でもない。またいでいる一瞬、人は二つの空間のどちらにも立っていない。ファン・ヘネップの発見は、成人式や婚礼や葬送といった人生の節目を、この敷居をまたぐ一連の動作として捉え直したことにある。たとえば成人の儀礼では、若者はまず子どもの世界から引き離され、しばしば村外れや森に隔離される。そこで一定期間、名も役割も持たない宙づりの存在として過ごし、試練を経てから、大人として村へ迎え入れられる。葬送も同じ形をとる。死者はひと息にあの世へ渡るのではなく、喪の期間をかけて少しずつ送られ、遺された者もそのあいだは日常に戻れない。子どもでも大人でもない期間、生者でも死者でもない喪のさなか。どちらも、分離と統合にはさまれた宙づりの時間だ。共同体はその宙づりを危険とみなし、だからこそ念入りな儀礼で囲い込んだ。囲い込まねば、当人も周囲も、その者をどう扱ってよいかわからなくなるからだ。

半世紀ののち、ヴィクター・ターナーがこの敷居を掘り下げた。彼は境界にある存在を betwixt and between(あいだのなかのあいだ)と呼ぶ。1967年の論文での表現だ。その状態にある者は、社会の分類の網をどこにも引っかからずにすり抜けてしまう。大人の枠にも子どもの枠にも入らない者は、名づけようがない。名づけられないものを、人は不気味に思う。恐怖の正体は、しばしば危害の予感ではなく、分類できないことそのものにある。

二つの領域を細い一線が分かつ、敷居の抽象図。
敷居(limen)は、内でも外でもない。またいでいる一瞬、人はどちらにも立っていない。

辻も橋も、そして逢魔が時も丑三つ時も、みなこの敷居の一種にほかならない。村の分類にも他界の分類にも属さない一線。今日にも明日にも属さない一瞬。妖怪がそこに湧くのは、妖怪こそ分類をすり抜ける存在だからだ。人でも獣でもなく、生でも死でもない。境界という宙づりの場所に宙づりの存在が現れるさまは、器と中身が互いを呼び合っているようでもある。

04市もまた敷居に立つ

ここで、はじめの市の話に戻ることができる。市がわざわざ境界に立ったのは、少しも偶然ではなかった。交換とは、あるものを手放して別のものを受け取る動作で、それ自体が一種の過渡だ。自分のものが他人のものになり、他人のものが自分のものになる、その入れ替わりの現場には、日常の所有の秩序が一度ゆるむ瞬間がある。だから市は、どちらの村にも属さないあいだに開かれた。誰の土地でもない場所でだけ、ものの帰属を組み替えることが許された。

夜に立つ市は、その空間の宙づりに、時間の宙づりを重ねる。恒川の『夜市』が「何でも買えるが対価なしには出られない」という掟を持つのは、だからひどく理にかなっている。敷居はただで渡れない。ファン・ヘネップの図式でいえば、過渡を抜けて統合へ至るには、必ず何かを支払わねばならない。成人には子ども時代の放棄が、葬送には遺された者の喪が必要になる。少年が弟を手放して市を出たのは、残酷であると同時に、境界を渡る者の掟に忠実だった。買い物とは、この世界では敷居を渡る儀礼の別名なのだ。

空間の敷居、時間の敷居、
そして交換という過渡——
三つの敷居が一点で重なる

異界が夜市に立つ理由は、これで一通りたどれた。市は空間の敷居に生まれ、夜はそこに時間の敷居を足し、交換は帰属を宙づりにする過渡そのものだった。三つの敷居が一点で重なるとき、そこは最も濃い境界になる。物語がその一点を選び当てるのは、作者が民俗学を知っていたからではなく、境界の手ざわりを知っていたからだろう。

05明けきらない時間に

現代の生活から、辻の地蔵も逢魔が時の畏れも薄れた。街灯が薄明を消し、時計が丑三つ時をただの数字に均した。それでも、境界の感覚がまるごと失われたわけではない。眠る前のとりとめない時間、見知らぬ街に降り立った最初の数分、画面の向こうと自分の部屋の区別が曖昧になる深夜。どちらにも属さない宙づりは、形を変えて残っている。

私たちがなお薄明に惹かれるのは、そこが答えの手前だからかもしれない。名づけられ、分類され、片付けられてしまう前の、まだ何にでもなれる一瞬。異界はもう辻には立っていないとしても、明けきらないその時間のなかに、まだ市を開いているのかもしれない。

出典

一次資料

  1. アルノルト・ファン・ヘネップ『通過儀礼』(原著 Les rites de passage, 1909/綾部恒雄・綾部裕子訳、岩波文庫、2012)——分離・過渡・統合の三段階と、リミナル(limen=敷居)概念。
  2. ヴィクター・ターナー「Betwixt and Between: The Liminal Period in Rites de Passage」(The Forest of Symbols, 1967)および『儀礼の過程』(The Ritual Process: Structure and Anti-Structure, 1969)——境界的存在の両義性、communitas。
  3. 小松和彦編『怪異の民俗学8 境界』(河出書房新社)——空間の境界(村境・辻・橋・峠)と時間の境界を同一の論理で整理。
  4. 網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、1978/増補1996)——中世の市・河原・寺社などを世俗の縁から切れた「無縁」の場として論じる。市の境界性の根拠。ただし「無縁」概念の適用範囲には学術的批判もある一学説。

補足資料・着想元

  1. 恒川光太郎『夜市』(角川書店、2005。第12回日本ホラー小説大賞)——境界の時空間と「対価の掟」を可視化したフィクション。学術出典ではなく着想元。
  2. 逢魔が時・丑三つ時の語源および陰陽・鬼門の説明は一般に流布する解説に依拠しており、民俗学の一次文献での裏づけは本稿では未確認。柳田國男の妖怪論等での直接の裏取りは今後の課題とする。