操り人形は生きている
『屍者の帝国』は「知性ある屍者は生きた者を上書きして生まれる」という設定に行き着く。これは物語の飛躍ではなく、生物学的な必然を嗅ぎ当てていた。自然界のゾンビ化はすべて生きた宿主の乗っ取りであり、死体は熱力学的な理由で操作の基盤そのものを失う。フィクションと生物学を往復し、なぜ生者でなければゾンビになれないのかを解く。
※本稿は伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』の中盤の展開に触れる。未読の人は留意してほしい。
19世紀末の帝国では、死者が働いている。伊藤計劃が遺し円城塔が書き継いだ『屍者の帝国』(2012)の世界では、死体の脳に「疑似霊素」と呼ばれる情報を書き込むことで、屍者という労働力が作られる。荷を担ぎ、戦列に並び、与えられた手順をなぞる。ただし、彼らに込み入った思考はできない。書き込まれた命令の外へは一歩も出られない、意志を抜かれた体である。作中では魂すらも一種の菌株のような実体として扱われ、屍者化とは、死んだ脳に別のプログラムを流し込む操作にほかならない。
物語の中盤、その前提が崩れる。手順を超えて判断し、目的を持って動く個体、すなわち思考する屍者が現れるのだ。死んだ体に高度な知性が宿るはずはないのに、その個体は確かに考えている。追っていくと、正体は死者ではなかった。生きた人間に、屍者化のプログラムを上書きした結果だったのだ。死んだ脳に書くのではなく、まだ動いている神経系の上へ、無理やり別の制御を重ねる。作中の新型屍者は、そうやって生者から作られていた。
作り話である。死体に電気を流せば奴隷労働者ができ、生者に上書きすれば知性ごと乗っ取れる――そんな技術はどこにもない。ところが、この非対称にだけは奇妙な手触りがある。死者より生者のほうが操りやすい、という感覚だ。フィクションの荒唐無稽さの底に、なぜか生物学の芯が一本通っている。自然界に実在する「ゾンビ化」を並べていくと、その芯の正体が見えてくる。
01人形遣いは脳を握らない
熱帯の林床に、宿主を乗っ取る菌がいる。Ophiocordyceps unilateralis、和名タイワンアリタケ。この菌に侵されたアリは、いつもの行進路を外れる。地表から一定の高さの葉や小枝によじ登り、葉脈に大顎で噛みついて絶命する。噛みついた顎は死後も外れない。菌はそこから子実体を伸ばし、真下を通る仲間へ胞子を降らせる。感染に最適な高さと湿度の一点へ、アリは自分の足で歩いて向かう。俗に「デスグリップ」と呼ばれるこの光景は、宿主操作の代表例として長く知られてきた。
問題は、菌がどこを操っているかである。素朴には、脳を乗っ取って命令を書き換えているように思える。だが2017年、David Hughesらの研究チームが感染したアリの体内を3次元で再構成し、機械学習で菌糸の分布を解析したところ、予想は裏切られた。菌はアリの脳にはほとんど侵入していなかった。かわりに、体中の筋繊維、とりわけ大顎を動かす筋肉のまわりを網の目のように取り囲み、外側から直接それを制御していた(Fredericksen et al. 2017)。続く研究では、噛みついた瞬間の顎の筋肉が過収縮の状態に入り、神経筋接合部を保ったまま能動的に固定されることも示された(Mangold et al. 2019)。
つまり菌は、中枢を破壊せず、末梢の生きた組織を乗っ取る。Hughesはこれを、人形遣いが糸で手足を操るのに似ていると述べた。人形遣いは人形の脳を握らない。関節に通した糸を引くだけで、意図など要らずに手足は動く。菌もまた、脳という司令塔を経由せず、生きた筋肉そのものに手を掛けていた。ここで注意したいのは、乗っ取られていたのが「生きた」筋肉だったことだ。死んで収縮も弛緩もしない繊維に、糸を掛けても引けない。
02逃げる気だけを抜く
もっと外科的な例がある。エメラルドゴキブリバチ、Ampulex compressa。この蜂は自分より大きなゴキブリを、生きた餌として幼虫に与える。運ぶのではない。歩かせるのだ。
蜂はまず、ゴキブリの前胸の神経節をめがけて一刺しし、前脚を数分だけ麻痺させる。動きが鈍ったところで、今度は頭部へ二刺し目を打ち込む。針は脳の特定の領域を正確に探り当て、逃走という行動を起こす回路へ毒液を注ぐ。Frederic Libersatらの一連の研究によれば、この毒液は脳の中枢複合体の活動を抑え込み、危険に対して逃げ出そうとする「動機」の部分だけを選択的に削り取る。運動能力そのものは残り、ゴキブリは歩けるし起き上がれる。ただ、逃げようとしなくなる。
無傷の脚を持ち、外界を感じ取れる状態のまま、蜂に触角を引かれるとおとなしく後を歩く。この従順は一週間ほど続く。生きているのに、自分から立ち去る意志だけが抜き取られている。死んだ体には、そもそも抜き取るべき意志がない。蜂が狙えたのは、まだ動いている脳の、まだ働いている回路だったからこそだ。
宿主操作は、この二例にとどまらない。ハリガネムシに寄生されたカマキリやコオロギは、本来避けるはずの水辺へ向かい、入水する。プロテオミクスの研究では、宿主の中枢神経系のタンパク質発現が寄生虫由来の物質によって変化していることが示唆され、しかも寄生虫が体から抜ければ宿主の異常行動は徐々に戻る(Ponton et al. 2011)。操作は可逆的だ。生きた神経系があるから操れるし、あるから回復もする。吸虫ロイコクロリディウムはカタツムリの触角に潜り、緑と黄の縞で脈打つ疑似イモムシに変え、宿主を明るい開けた場所へ導いて鳥の目に晒す(Wesołowska & Wesołowski 2013)。トキソプラズマに感染したラットは、猫の匂いへの生得的な恐怖を失う(Berdoy et al. 2000)。
ただし、この最後の例をヒトへ延ばすときは足を止めたい。トキソプラズマがヒトの性格や反応速度、事故率に影響するという疫学的報告は数多いが、そこには根深い留保がある。ヒトでは対照実験ができず因果を証明しにくいこと、効果量が小さく研究間で結果が食い違うこと、そして「寄生虫が性格を変えた」のか「特定の気質の人が感染しやすい」のかという逆向きの因果が排除しきれないこと。これらはトキソプラズマ研究を牽引してきたJaroslav Flegr自身が認める限界である(Flegr 2013)。ラットで確かめられたことを、そのままヒトの物語にしてはいけない。
それでも、共通する原理ははっきりしている。菌も蜂も線形虫も吸虫も、乗っ取っているのは例外なく「生きた」神経系であり、筋肉であり、まだ働いている回路だ。操作の対象は、常に生者の側にある。
03死体は、操れるより前に失われている
なぜ死者は操れないのか。腐るからだ、と答えたくなる直感は正しいが、腐敗のもう一段手前に、もっと即物的な理由がある。
生きた筋肉が縮み、また緩むには、ATPという分子が要る。ミオシンとアクチンという二種のタンパク質が結合して筋は縮み、その結合を外して緩めるのにATPが使われる。死んで酸素の供給が絶たれると、ATPの生産はやがて完全に止まる。すると、いったん結合したミオシンとアクチンを引き剥がす手立てがなくなる。筋は縮んだまま固まる。これが死後硬直だ。硬直は、筋組織そのものが酵素で分解されていく――つまり腐敗が進む――のを待って、ようやく解ける。
ここに、生と死を分ける操作可能性の断層がある。死体は「動かせない」のではない。協調して動かすための仕組みそのものを、死とともに手放している。緩めることができない筋肉は、糸を掛けても引けない人形の関節と同じだ。神経の側も事情は変わらない。ニューロンは酸素とグルコースの供給が数分途切れただけで不可逆な損傷を負うことが医学的に知られている。司令塔も末梢も、生化学の基盤ごと崩れていく。
だから、寄生生物が死体を乗っ取らないのは、遠慮でも偶然でもない。査読された生物学の文献に、死体を操作する自然現象の報告は見当たらない。「絶対に不可能」と言い切るのは悪魔の証明に近いが、少なくとも、操作の足場になる生きた組織がなければ、乗っ取りようがない。Ophiocordycepsが選ぶのは生きたアリであり、Ampulexが歩かせるのも生きたゴキブリだ。『屍者の帝国』が「死者に書き込む」を空想として描き、「生者に上書きする」を物語の核心に据えたとき、作品は知ってか知らずか、この断層をなぞっていた。
04意識を通らずに、体は複雑に動く
生者を乗っ取れるとして、そこに知性まで宿るのはなぜか。屍者の設定では死体は単純作業しかできなかったのに、生者を上書きすると思考する個体が生まれた。この落差は、ヒトの脳を眺めるとそれほど不思議でもない。
意識を通さずに、人はかなり込み入ったことをやってのける。夢遊病のさなかにある人は、着替え、歩き、扉を開ける。ときに暴力にも及ぶ。ある医学的・法的事例の分析では、そうした暴力の多くが、他者からの接触や近接した挑発に続いて起きていた(Pressman 2007)。本人に翌朝の記憶はない。てんかんの複雑部分発作や解離でも、料理や運転や会話といった目的的な行動が、意識を伴わずに進むことがある。刑事責任能力をめぐって長く争われてきた自動症の問題だ。あるいは盲視。一次視覚野を損なった患者は「見えない」と語りながら、目の前の物の位置や動きを偶然よりずっと高い精度で当て、障害物さえよけてみせる(Weiskrantz et al. 1974)。
複雑さと、意識の明かりは、必ずしも一緒に灯らない。込み入った行動は、通常の意味での「気づき」を経由しなくても成立する。屍者が単純作業しかできないという設定は、この事実の前ではむしろ控えめに見える。生きた神経系が回っていさえすれば、その上で目的を持った複雑な振る舞いが走ることは、ヒト自身の脳が日々証明している。
05意識という、逆向きの問い
哲学は、これとちょうど裏返しの存在を考えてきた。哲学的ゾンビ。David Chalmersが1996年に立てた思考実験で、物理的には人間と寸分違わないのに、内側の経験――痛みの疼き、赤の赤らしさ――だけが完全に欠けた存在を指す。外からは本物の人間と見分けがつかず、痛がり、笑い、語る。ただ、そこには誰も住んでいない。もしこのような存在が論理的に矛盾なく想定できるなら、意識は物理的な事実に還元しきれない何かだ、というのがChalmersの論証だった。もっとも、この論証が成り立つかどうかは今も激しく争われており、Daniel Dennettらは強く反対している。
哲学的ゾンビが「振る舞いはあるのに意識がない」存在だとすれば、『屍者の帝国』の思考する屍者は、その逆問題を差し出す。本来なら意識など宿らないはずの、上書きされただけの体に、知性が芽生えてしまう。魂を情報として扱うこの作品では、意識の側こそが後から流れ込む。哲学が考えるのは意識のないゾンビはありうるかであり、物語が描くのはゾンビに意識が宿ってしまったらどうなるかだ。同じ断層の、こちら側とあちら側である。
06まだ温かい媒体
ゾンビという語そのものにも、生者と死者の綱引きが刻まれている。語源には諸説あるが、バントゥー諸語系のnzambiやnzumbiに遡る説が有力で、ハイチのヴードゥーを経て英語に入った。そこでのゾンビは、群れて人を襲う存在ではない。呪術師ボコーに支配され、意志を抜かれて働かされる、たった一人の隷属者だ。対象はしばしば生きた人間である。人類学者Wade Davisは、フグ毒テトロドトキシンで仮死状態を作り出すという薬理学的な仮説を唱えたが(Davis 1985)、その後の毒性学的検証はこの説におおむね否定的で、標本から毒がほとんど検出されない例が繰り返し報告された(Kao & Yasumoto 1986)。仮説としては、いまや旗色が悪い。
私たちが「ゾンビ」と聞いて思い浮かべる、墓から這い出し群れをなす死者の像は、ずっと新しい。ジョージ・A・ロメロの『Night of the Living Dead』(1968)以降に形を得た近代の造形だ。そして皮肉なことに、この最も有名なゾンビ像こそ、生物学からいちばん遠い。死体が起き上がり、協調して動き、獲物を追う――死後硬直の生化学は、その最初の一歩を許さない。起き上がる死者は、科学の側から見れば純粋なフィクションである。
不気味さの在処が、ここで入れ替わる。怖いのは、腐った体が墓から出てくることではない。生きて働いている神経系が、そのまま上書き可能な媒体だということのほうだ。菌はアリの筋肉に糸を掛け、蜂はゴキブリの逃走回路だけを抜き、線形虫は宿主を水へ歩かせる。いずれも、まだ温かい体を選んでいる。乗っ取れるのは、生きているものだけだ。『屍者の帝国』が死者ではなく生者を上書きの対象に選んだとき、物語はいちばん怖い一点を、正しく言い当てていたことになる。ゾンビは可能かと問うなら、答えはこうなる――死んでからでは、遅い。
出典
一次資料
- Fredericksen, M.A. et al. (2017). "Three-dimensional visualization and a deep-learning model reveal complex fungal parasite networks in behaviorally manipulated ants." PNAS 114(47): 12590–12595. doi:10.1073/pnas.1711673114
- Mangold, C.A., Ishler, M.J., Loreto, R.G., Hazen, M.L., Hughes, D.P. (2019). "Zombie ant death grip due to hypercontracted mandibular muscles." Journal of Experimental Biology 222(14): jeb200683. doi:10.1242/jeb.200683
- Ponton, F. et al. (2011). "Water-seeking behavior in worm-infected crickets and reversibility of parasitic manipulation." Behavioral Ecology 22(2): 392–400. doi:10.1093/beheco/arq215
- Wesołowska, W. & Wesołowski, T. (2013). "Do Leucochloridium sporocysts manipulate the behaviour of their snail hosts?" Journal of Zoology 292(3): 151–155. doi:10.1111/jzo.12094
- Berdoy, M., Webster, J.P., Macdonald, D.W. (2000). "Fatal attraction in rats infected with Toxoplasma gondii." Proceedings of the Royal Society B 267(1452): 1591–1594. doi:10.1098/rspb.2000.1182
- Flegr, J. (2013). "Influence of latent Toxoplasma infection on human personality, physiology and morphology: pros and cons of the Toxoplasma-human model in studying the manipulation hypothesis." Journal of Experimental Biology 216(1): 127–133. doi:10.1242/jeb.073635
- Pressman, M.R. (2007). "Disorders of arousal from sleep and violent behavior: The role of physical contact and proximity." Sleep 30(8): 1039–1047. doi:10.1093/sleep/30.8.1039
- Weiskrantz, L. et al. (1974). "Visual capacity in the hemianopic field following a restricted occipital ablation." Brain 97(4): 709–728.
- Chalmers, D.J. (1996). The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory. Oxford University Press.
- Davis, W. (1985). The Serpent and the Rainbow. Simon & Schuster.
- 伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』河出書房新社、2012年。
補足資料
- Libersat, F. らによるエメラルドゴキブリバチの神経操作に関する一連の研究(Frontiers in Physiology 2022 ほか)。
- Kao, C.Y. & Yasumoto, T. (1986). テトロドトキシン仮説への毒性学的検証。
- George A. Romero, Night of the Living Dead (1968). 近代ゾンビ像の起点として。