析出する花子さん
三番目の個室、三回のノック。トイレの花子さんは全国で細部の型がよく揃っている。バートレットの連続再生実験、スペルベルの文化的アトラクション理論、バナナ型神話を経由し、口裂け女のメディア伝播で一度前提を壊してから、「拡散はメディアの仕事、形の保存は認知の仕事」に立て直す。結びは『断章のグリム』の泡禍。
手前から三番目の個室を、三回ノックして「花子さん、いますか」と尋ねる。返事が聞こえたら、扉を開けてはいけない。
この作法は、驚くほど広い範囲で通じる。トイレの花子さんは、遅くとも1980年代には全国の小学校で語られる存在になっていた。土地ごとの細部は違う。おかっぱに赤いスカートの姿だったり、呼び出す場所が三階だったり旧校舎だったり、便器から白い手が伸びる型が混ざっていたりする。それでも、三番目の個室・三回のノック・呼びかけて返事を待つという骨組みは、めったに崩れない。転校した子どもが新しい学校で花子さんを持ち出しても、話はおおむね通じたはずだ。作法を定めた協会も、全国の小学生が答え合わせをする場も、どこにもなかったのに。
誰かが広めたのだろう、とまず考えたくなる。その直感は半分正しく、ただし半分では足りない。物語は、人から人へ伝わるあいだに姿を変えていくものだからだ。伝言ゲームを十人も経れば原形を失うはずの話が、なぜ骨組みだけは列島の端から端まで同じ形を保てたのか。答えを先に一枚の絵にするなら、それは飽和した溶液のあちこちで、同じ形の結晶が析出していく光景になる。
01実験室の伝言ゲーム
1932年、ケンブリッジ大学の心理学者フレデリック・バートレットは、著書 Remembering で一連の実験を報告した。英国の学生に、北米先住民の民話「幽霊たちの戦争(The War of the Ghosts)」を読ませる。しばらく置いて思い出させる。あるいは、ひとりが再生した文章を次のひとりに渡し、伝言ゲームの要領でリレーさせていく。後者は連続再生法と呼ばれる手法で、口承の伝播を実験室に縮めた模型といっていい。
結果、物語は語り直されるたびに短くなった。それだけなら摩耗にすぎない。バートレットが見つけたのは、削れ方に方向があることだった。学生になじみのないカヌーやアザラシ猟や幽霊の理屈は、脱落するか、なじみのある要素に置き換わる。筋は英国人の常識に引き寄せられ、残った要素は前よりも筋の通った物語に組み直される。記憶は経験のコピーを取り出す装置というより、手持ちの型――バートレットはスキーマと呼んだ――で毎回作り直す装置だった。
ひとつ、足元に注意がいる。この有名な実験は、長いあいだ追試の成功例を欠いていた。1999年にベルクマンとレディガーが原典の手続きを厳密になぞり、時間とともに歪みが増える現象をようやく実験的に確かめている。裏を返せば、1932年の報告は手続きの記述が精密とは言いがたかった。伝説としてではなく再現された現象として引けるようになったのは、実はこの四半世紀のことだ。
校庭の口承は、この連続再生の巨大版にあたる。ただし実験室では物語は崩れていったのに、花子さんは崩れずに揃った。矛盾に見えて、これは同じ現象の両面だ。全員の削れ方が同じ方向を向いていれば、無数の語り直しはばらばらに壊れず、ひとつの形へ寄っていく。削られた果てに残るその形を、名指しした理論がある。
02記憶に残る話の形
人類学者のダン・スペルベルは、文化の伝わり方を感染症の疫学になぞらえる構想を立てた。1996年の論文集 Explaining Culture にまとめられた「表象の疫学」である。骨子はこうだ。人から人への伝達は複製というより毎回の再構成で、そのつど変形が入る。それでも文化が安定しているのは、変形がでたらめな方向へ散らばらず、人間の認知にとって覚えやすく作りやすい形、いわば引力の中心へ吸い寄せられていくからだ。この考えは2014年、共同研究者クレディエールらとの論文で、文化的アトラクション理論として定式化された。
認知人類学者パスカル・ボイヤーは、その引力の中心がどんな形をしているかを絞り込んだ。1994年の The Naturalness of Religious Ideas で論じたのは、直観的なカテゴリーを一点だけ裏切る観念が、最も記憶に残り、最も伝わりやすいことだ。minimally counterintuitive(最小限に反直観的)、とボイヤーは名づけた。すべてが日常の話は忘れられる。何もかもが常識外れの話は、そもそも頭に留まらない。壁を抜けること以外は人間と同じ幽霊、話すこと以外は普通の木。一点だけの裏切りが、記憶の通り道をいちばんよく滑る。
断っておくと、二人の理論は神や精霊の観念を説明するために組まれたもので、学校の怪談に当てはめた研究が確立しているわけではない。ここでやっているのは物差しの借用だ。それでも目盛りはよく合う。日常の極みである学校のトイレに、返事をする無人の個室というただ一点の異常。花子さんは、最小限に反直観的な物語の見本のような形をしている。無数の語り直しが削りに削った結果、記憶に最も残る形だけが残った。収斂は、そう読める。
03石と花
射程を広げてみる。似た形への収斂は、校庭よりずっと大きな規模でも起きてきた。
フィンランドのアンティ・アールネが1910年に始め、スティス・トンプソンを経て、2004年にハンス゠イェルク・ウターが引き継いだ話型分類(頭文字を取ってATU分類と呼ぶ)は、世界中の昔話が有限個の型に整理できてしまうことを示した体系だ。たとえば人類学者ジェームズ・フレイザーがバナナ型と名づけた神話群。神が石とバナナを差し出し、バナナを選んだ人間は、石の永続を失って死すべきものになる。東南アジアからニューギニアにかけて分布するこの型は、日本の神話にもある。天から降りたニニギは、岩の名を持つイワナガヒメを送り返し、花の名を持つコノハナサクヤヒメだけを娶った。それゆえ天皇の命は花のように短い、と『古事記』は語る。石と花に姿を変えても、選択と引き換えの死という骨組みは同じだ。
では、この一致は人類の頭の同型性の証拠なのか。民俗学はそれほど素朴ではなかった。似た話の分布をめぐっては独立発生説と伝播説の論争が古くからあり、ATU分類の体系自体、話型がひとつの起源から伝わり広がったことを前提に組まれている。同じ形は、それぞれの頭のなかから独立に生えてくるとは限らない。運ばれてくるのだ。
04輪転機と電波
花子さんも例外ではない。全国化の経路をたどると、口づての外側に太い水路が何本も見つかる。1990年前後には学年誌やホラー雑誌の投稿欄が学校の怪談の集積地になっていた。1993年には民俗学者の常光徹が『学校の怪談――口承文芸の展開と諸相』で子どもたちの語りを体系的に採集・分析し、同名の児童書シリーズや映像化が続いた。1995年に実写、1996年にアニメと、花子さんを表題にした映画も相次いで公開されている。姿かたちと声を与えられた花子さんが、誌面とスクリーンから全国に配られた。
もっと露骨な実例もある。口裂け女だ。1978年の末に岐阜県で発生したとされるこの怪談は、翌1979年、春から夏までのわずか半年ほどで青森から鹿児島まで走り抜けた。地方紙が報じ、週刊誌が追いかけ、報道そのものが次の伝播を加速した。この速度は口づて単独では出ない。列島を縦断したのは子どもの声だけでなく、輪転機と電波だった。
だとすると、冒頭の絵は描き直しを迫られる。各地で独立に湧いたように見えた怪談の一致は、そのかなりの部分が、メディアの水路を流れた伝播の結果だった。並行進化の神秘は解体された――そう話を閉じたくなる。だが、それでは最初の謎がそっくり残る。
05水路と結晶
水路は速さを説明する。形の保存を説明しない。
テレビも雑誌も、放課後のトイレの前で語り直す子どもの口までは管理できない。バートレットの実験のとおり、語り直しには必ず変形が入る。実際、花子さんは変異し続けている。土地ごとに服装を変え、出現の条件を変え、新しい撃退法を生やす。変異は起きているのだ。それでも骨組みだけは揃い続ける。
結晶の比喩が、ここで最もよく働く。溶質を各地へ運ぶのは水路だが、析出する結晶の形は水路の形では決まらない。分子の側の構造で決まる。メディアは日本中の子どもの頭を怪談の素材で飽和させた。飽和した場所で物語は析出する。そのとき現れる形は、運ばれてきた原文の形でも、映画の脚本の形でもない。人間の記憶が保持しやすく、直観を一点だけ裏切り、声に出して怖い、あの形だ。拡散はメディアの仕事、形の保存は認知の仕事。北海道と鹿児島の花子さんが似ているのは、同じ誌面を読んだからでもあるが、それ以上に、同じ作りの頭で数え切れないほど語り直されたからだ。
ひとつ、この枠に収まりきらない事実も置いておく。なぜトイレなのか。常光徹はトイレを、学校の管理と秩序からはみ出た空間として分析した。ひとりになれて、扉が閉まり、教師の目が届かない、校舎で唯一の場所。結晶に核が必要なように、析出には場所が必要だ。そしてその場所の選ばれ方は、記憶のしやすさだけでは決まらないらしい。認知の物差しは万能ではない。
06泡の禍
甲田学人のライトノベル『断章のグリム』(電撃文庫、2006〜2012年)には、噂と恐怖が現実の災厄として受肉する世界が描かれる。あらゆる怪異は「神の悪夢」の欠片で、人間の集合的な恐怖や悪意と混ざり合い、現実を変質させながら溢れ出す。この災厄を、泡の禍と書いて泡禍と呼ぶ。
設定の細部に、目を疑う一条がある。泡禍は規模が大きくなるほど、発端になった個人の事情が薄まり、昔話や童話の元型に近い形で現れる――大きく広がった災厄ほど、グリム童話の筋書きをなぞりはじめるのだ。これは、バートレットからスペルベルまでこの記事が並べてきた知見の、ほとんど正確な言い換えになっている。語りは広がるほど個別の細部を失い、認知の引力の中心へ寄っていく。フィクションは同じことを、学術の言葉が届くより先に、災厄の設定として書いていた。
物語は駆除できない、と泡禍の世界は告げている。この読みを現実側に持ち帰るなら、こうなるだろう。水路をすべて封じても、素材が人々の頭に溶けている限り、条件の揃った場所で物語はまた析出する。花子さんはどこかから来たのでも、誰かの発明でもなく、飽和した放課後の校舎に何度でも析出する結晶である。今夜もどこかの学校で、三番目の個室が、ノックを待っている。
出典
一次資料
- 常光徹『学校の怪談――口承文芸の展開と諸相』ミネルヴァ書房、1993年(角川ソフィア文庫版『学校の怪談 口承文芸の研究I』2002年)。
- F. C. Bartlett, Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology, Cambridge University Press, 1932.
- E. T. Bergman & H. L. Roediger, "Can Bartlett's repeated reproduction experiments be replicated?", Memory & Cognition, 27, 1999. http://psychnet.wustl.edu/memory/wp-content/uploads/2018/04/Bergman-Roediger-1999_MemCog.pdf
- Dan Sperber, Explaining Culture: A Naturalistic Approach, Blackwell, 1996.
- N. Claidière, T. C. Scott-Phillips & D. Sperber, "How Darwinian is cultural evolution?", Philosophical Transactions of the Royal Society B, 369, 2014. https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstb.2013.0368
- Pascal Boyer, The Naturalness of Religious Ideas: A Cognitive Theory of Religion, University of California Press, 1994.
- Hans-Jörg Uther, The Types of International Folktales, Suomalainen Tiedeakatemia, 2004.
- 『現代語訳 古事記』武田祐吉訳、青空文庫所収(イワナガヒメ・コノハナサクヤヒメは上巻)。https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/card51732.html
- 甲田学人『断章のグリム』電撃文庫、2006〜2012年(全17巻)。
補足資料
- 「トイレの花子さん」Wikipedia。https://ja.wikipedia.org/wiki/トイレの花子さん
- 「バナナ型神話」Wikipedia(フレイザーによる命名の経緯)。https://ja.wikipedia.org/wiki/バナナ型神話
- 「口裂け女」Wikipedia。https://ja.wikipedia.org/wiki/口裂け女
- 「『学校の怪談』から見えてくる子どもたちの日常と教師との『分断線』」nippon.com。https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02322/
- "Cultural Attractors", Open Encyclopedia of Cognitive Science (MIT). https://oecs.mit.edu/pub/mfsrxxgb
- 「降臨した天神の結婚に込められた意味」國學院大學メディア。https://www.kokugakuin.ac.jp/article/100909