いない人の居場所
「誰かがいる」という感覚は、そこに誰もいなくても単体で立ち上がる。シャクルトンの4人目、金縛りの侵入者、遠野物語の亡き妻を、ブランケのロボット実験・TPJ電気刺激・睡眠麻痺研究と行き来しながら見る。幽霊はモノの側ではなく知覚の側に立つ、という話。
1916年5月、雪と氷に覆われたサウスジョージア島の稜線を、3人の男が登っていた。南大西洋の亜南極に浮かぶ、陸地の大半を氷河が埋める島だ。彼らの船は前年、南極大陸をめざす途中で流氷に砕かれて沈み、仲間は絶海の孤島に取り残されていた。その救援を呼ぶため、隊長のアーネスト・シャクルトンたちは、地図のない雪山を、ロープ1本と大工の手斧だけで越えようとしていた。眠らずに歩き続けて36時間の行程だった。
歩いたのは3人。シャクルトンと、航海士のフランク・ワースリー、そしてトム・クリーンだ。ところが救出後に書かれた航海記『南』(*South*, 1919)で、シャクルトンはこう書きつけている。その長く苦しい36時間の行軍のあいだ、しばしば自分たちは3人ではなく、4人でいるように思えた、と。
奇妙なのは、この感覚がシャクルトン一人のものではなかったことだ。航海士のワースリーも、あの行軍を思い返すたび、自分たちが4人いるような感覚がずっと拭えなかったと別に書き残している。互いに口に出さないまま、それぞれが数に合わないもう一人を、すぐ隣に感じていた。誰も見ておらず、足跡も残さず、声も立てない。それでも、そのもう一人がいる位置だけははっきりしていた。すぐ後ろか、かたわら。
振り返れば、そこには誰もいない。にもかかわらず、誰かがいるという手ごたえだけが残る。この、対象を欠いたまま立ち上がる存在の手ごたえを、心理学は feeling of presence/feeling of a presence(存在の感覚)と呼ぶ。幽霊譚のほとんどは、この感覚から始まっている。冷たい部屋の空気でも、きしむ床板でもなく、まず「誰かがいる」が来て、それから理由が探される。だとすれば、幽霊が最初に立つのはモノの側ではない。まず知覚の側に立つ。問題は、この感覚が本物かどうかにはなく、対象なしに単体で起動しうるかどうかにある。もし起動しうるなら、感覚は本物のまま、それが指す相手だけが空席でありうることになる。
01背後に立つ装置
その空席を、実験室でつくり出した人たちがいる。神経科学者のオラフ・ブランケらは2014年、『カレント・バイオロジー』に発表した研究で、健常な人に「背後に誰かがいる」感覚を意図的に誘発してみせた。仕掛けはロボットである。被験者は目隠しをして、前方のロボットアームに指を差し込み、それを動かす。すると背後のもう一台のロボットが、まったく同じ軌跡で被験者の背中に触れる。自分の指の動きが、そのまま自分の背中への接触になって返ってくる。この対応がぴったり同時なら、被験者は「自分で自分に触れている」としか感じない。
ここに0.5秒の遅れを差し込む。指を動かしてから半秒おいて背中に触れられると、自分の運動と皮膚の感覚のあいだの辻褄が合わなくなる。すると、参加した健常者の一部が、はっきりとした異変を報告した。背後に誰かがいる。すぐ後ろに、もう一人が立っている。触れているのは自分の手のはずなのに、それが他人の手のように感じられ、その他人がそこにいる、と。人によっては、いま何人でこの部屋にいるかと問われて、実際より一人多く数えた。
この論文のタイトルには apparition の一語がある。幽霊、亡霊を指す言葉だ。装置が生んだのは幻の物音でも冷気でもない。まさに「もう一人がそこにいる」と定位された存在だった。ここで確かめられたことは決定的だ。存在の感覚は、そこに実際の他者がいなくても、感覚と運動のわずかなズレだけで単体で立ち上がる。相手を認識した結果として湧く感情ではない。それ自体が、一つの知覚として発火する。
この、身体も対象も持たないのに随伴してくる存在感を、本稿では無主の同行者と呼びたい。主とは、その存在感が本来ぶら下がるはずの身体であり対象である。それを欠いたまま、位置だけを持って隣を歩くもの。ブランケらの装置は、この無主の同行者を機械のスイッチのように点けたり消したりしてみせた(存在の感覚を誘発したこの研究が、命名の根拠である)。シャクルトンの4人目も、この同行者の一人だと考えていい。ついでに言えば、その4人目は36時間の行軍で一度も荷を負わなかった。隊列の順番も守らず、位置はあるのに義務だけがない。無主の同行者に住所はあるが、表札はないのである。
02寝室のもう一人
装置がなくても、この同行者は現れる。しかも、遠征隊の極限などではない、ごくありふれた場所に。睡眠麻痺、俗にいう金縛りの最中である。
眠りに落ちる境目や目覚めぎわに、意識だけが戻って身体が動かないことがある。このとき多くの人が、部屋に誰かがいると感じる。カナダの心理学者ジェームズ・チェインらは1999年、金縛りに伴う幻覚を大規模に調べ、それが大きく三つのまとまりに分かれることを示した。胸を圧され息が詰まる感覚。浮遊や落下、体が抜け出すような感覚。そしてもう一つが、侵入者(Intruder)と名づけられた因子で、その中心にあるのがまさに sensed presence、誰かがそこにいる感触だった。恐怖を伴い、ときには人影や物音の幻覚もまじる。暗い寝室のドアの向こうや枕元に、何者かが立っている。
大学生を対象にした調査では、金縛り自体を一度は経験したことのある人が概ね3割ほどにのぼった。そのなかでも存在の感覚は、随伴する幻覚のうち最も起きやすいものの一つだった。つまりこれは、南極の氷河を渡った探検家だけの特権ではない。眠りと目覚めのあいだで運動と感覚の制御が一瞬すれ違えば、誰の寝室にも無主の同行者は入ってくる。ブランケの実験室が0.5秒の遅れでつくったものを、脳は寝入りばなに自前でつくってしまう。装置と寝室が、同じ一つの現象の両側にいる。
03影の座
その同行者は脳のどこに住んでいるのか。位置を名指しした症例がある。
2006年、シャハル・アルジーとブランケらは『ネイチャー』に短い報告を載せた。てんかんの手術前検査を受けていた女性患者の脳を、電極でごく狭い範囲ずつ刺激していく。左の側頭頭頂接合部、頭のうしろで側頭葉と頭頂葉が出会うあたりに電流を流したとき、患者は右後方に人の存在を感じると訴えた。若い男が、そこにいる。刺激を繰り返すたび、その影のような人物は現れた。興味深いのは、患者が姿勢を変えると影も同じ姿勢を取ったことだ。患者が上体を前に倒し膝を抱えると、影の男もその姿勢を真似た。まるで患者自身の身体の像が、他人としてすぐ後ろに立ち上がっているかのようだった。
側頭頭頂接合部は、自分の身体がどこにあり、どこからが自分でどこからが他人かを扱う場所だと考えられている。ここに電流の乱れが加わると、自分の身体の輪郭が、他人の存在として外へ投げ出される。無主の同行者には、脳内の座があった。少なくとも、その座に触れれば呼び出せる。ただしこれは1例の報告であって、誰の頭でも同じ場所を押せば影が立つ、と読むのは行き過ぎる。ブランケらが病変を調べた別の患者群では、存在の感覚に関わる損傷が島皮質や側頭頭頂皮質など複数の領域に散らばっていた。座はおそらく一点ではなく、身体の輪郭を保つための回路のどこかが乱れたときに、共通して同行者が滲み出てくる。位置を持つが身体を持たないもう一人は、身体の地図を描く脳が、その地図の縁でこぼした像なのかもしれない。
04霧のなかの妻
ここまでは、同行者に顔がなかった。ただの背後の誰か、影の男。だが現場の記録には、その同行者が特定の顔を持って立つ瞬間がある。しかも、最も会いたかった相手の顔で。
柳田國男の『遠野物語』九九話。岩手の海辺に婿入りした福二が、先年の津波で妻と子の一人を失う。生き残った子らと、焼け跡に小屋を掛けて暮らしていた、夏の初めの月夜のことだ。青空文庫が底本とする岩波文庫版の本文は、こう記す。
霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思わず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑いたり。
追いすがった福二が、子どもは可愛くないのかと問うと、妻は顔色を変えて泣いた。相手の男は、生前の妻と心を通わせ、同じ津波で死んだ里の者だった。二人はふたたび足早に霧のなかへ去り、山陰を回って消える。追いかけながら、福二はふと、あれは死んだ者だったと気づく。夜明けまで道に立ち尽くして考え、朝になって帰った。その後、長く患ったという。
この記録を、死者の魂が実在した証拠として読むこともできるし、心が生んだ幻として片づけることもできる。だが存在の感覚を補助線にすると、別の層が見えてくる。福二を最初に捉えたのは、妻の思い出でも死の意味でもない。霧のなかに人がいる、位置を持った手ごたえだったはずだ。無主の同行者がまず立ち、そこにいちばん強い引力を持つ相手の顔が乗った。存在の感覚は、対象なしに単体で起動する。だが起動したその感覚は、相手の席をいつまでも空けてはおかない。誰の顔でもよかったはずの同行者に、いない誰かのなかで最も会いたい人の輪郭がはまり込む。喪失は、この感覚を最も濃く、最も具体的に立てる。実験室が0.5秒でつくる淡い存在の感覚の、その先の極点がここにある。
05ヘルメットの神
もっとも、存在の感覚を意のままに誘発できるという主張には、正面から立ちはだかる反証候補がある。パーシンガーの実験だ。
カナダを拠点とする神経科学者マイケル・パーシンガーは1980年代から、頭部に弱い変動磁場を当てる装置で、被験者に存在感や神秘体験を引き起こせると報告してきた。装置は俗に「ゴッドヘルメット」と呼ばれた。側頭葉に磁場で微弱な乱れを与えると、部屋にいるはずのない存在が感じられ、ときにそれが宗教的な感覚に育つ、と。もしこれが本当なら、無主の同行者はスイッチ一つで生む現象になり、話はきれいに閉じる。
だが2005年、スウェーデンのペール・グランクヴィストらが二重盲検でこの実験を追試し、再現できなかった。被験者にも実験者にも磁場のオン・オフを知らせない厳密な条件では、磁場を浴びた群と浴びていない群のあいだに差が出なかった。存在感や神秘体験の強さを予測したのは磁場ではなく、被暗示性やパーソナリティ特性のほうだった。つまり、装置を着けて何かが起こると期待した人ほど、何かを感じていた。これに対しパーシンガー側は、追試では磁場の曝露時間が足りない、条件が違う、と反論している。この応酬はいまも決着していない。少なくとも、磁場一つで存在の感覚を安定して点灯できるとする強い主張は、宙に浮いたままだ。
ここは逃げずに置いておきたい。ブランケのロボットもアルジーの電極も、存在の感覚が生理的な乱れから立ち上がることは示している。だが、その乱れを外から手軽にダイヤルできるかどうかは別の話だ。パーシンガーとグランクヴィストの決着のつかなさが、その難しさをそのまま映している。誘発できるという事実と、意のままに誘発できるという誇張のあいだには、まだ埋まっていない距離がある。
06いない人の居場所
幽霊は実在するか。この記事は、その二択には乗らない。
代わりに言えることがある。存在の感覚は、実在する。ロボットで誘発でき、脳に触れれば呼び出せる座を持ち、探検家の手記にも金縛りの調査にも津波のあとの記録にも、同じかたちで刻まれている。すぐ後ろに、かたわらに、誰かがいる。この手ごたえは、たとえ錯覚ではあっても、捏造ではない。知覚が本当にそれを差し出している。ただ、その感覚が指し示す「誰か」のほうは、いないことがある。位置はあるのに、身体がない。住所はあるのに、住人がいない。
だとすれば、幽霊を信じる者と信じない者は、案外すれ違っているだけなのかもしれない。信じる者は、確かにあった存在の感覚を報告している。その報告に嘘はない。信じない者は、その感覚が指す身体はそこになかったと言っている。それも正しい。二人は同じ一つの出来事の、感覚の側と対象の側を、それぞれ手にしている。決着しないのは、握っているものが違うからだ。
では、その気配の居場所はどこなのか。部屋の暗がりでも、枕元でも、すぐ後ろでもない。おそらく、どこからが自分でどこからが他人かを引き分ける、脳のその手もとにある。気配は外から近づいてくるように思えて、ほんとうは内側から立ち上がっている。だから、どれだけ振り返っても、そこには誰もいない。誰もいないのに、いた手ごたえだけが残る。いない人は、部屋のなかにではなく、その人を感じ取った者のなかに、居場所を持っている。
出典
一次資料
- Ernest Shackleton, South: The Story of Shackleton's Last Expedition 1914–1917 (William Heinemann, 1919)――「その長い行軍のあいだ、しばしば3人ではなく4人でいるように思えた」の記述の根拠。フランク・ワースリーによる同様の独立記述(Endurance, 1931)もサードマン現象の一次記録として併せて参照した。
- Olaf Blanke, Polona Pozeg, Masayuki Hara, et al., "Neurological and Robot-Controlled Induction of an Apparition," Current Biology 24(22), 2014, 2681–2686. DOI: 10.1016/j.cub.2014.09.049――ロボットによる存在感(feeling of presence)誘発と、慢性的に存在感を訴える神経疾患患者の病変マッピングの根拠。本文中の「参加者の一部」の定量値(二次資料では健常者の約3割・5名、病変患者12名)は下記8の二次資料に依拠し、論文本文は未確認である。
- James A. Cheyne, Steve D. Rueffer & Ian R. Newby-Clark, "Hypnagogic and Hypnopompic Hallucinations during Sleep Paralysis: Neurological and Cultural Construction of the Night-Mare," Consciousness and Cognition 8(3), 1999, 319–337――睡眠麻痺に伴う幻覚の三因子(侵入者/胸部圧迫/前庭運動)と、侵入者因子の中核としての sensed presence の根拠。金縛りの経験率(概ね3割)は同種調査に基づく概数。
- Shahar Arzy, Margitta Seeck, Stephanie Ortigue, Laurent Spinelli & Olaf Blanke, "Induction of an Illusory Shadow Person," Nature 443(7109), 2006, 287. DOI: 10.1038/443287a――左側頭頭頂接合部への電気刺激で「影の人物」が反復誘発され、患者の姿勢を模倣したことの根拠。単一症例(1例)の報告である。
- 柳田國男『遠野物語』九九話――霧のなかで亡き妻に会う福二の記録。底本: 岩波文庫『遠野物語・山の人生』岩波書店、1960(昭和35)年初版。青空文庫 図書カードNo.52504(https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/card52504.html)。引用は青空文庫本文XHTML(https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html)による。文中の津波は明治三陸地震津波(1896年)を指す。
- Pehr Granqvist, Mats Fredrikson, Patrik Unge, et al., "Sensed Presence and Mystical Experiences Are Predicted by Suggestibility, Not by the Application of Transcranial Weak Complex Magnetic Fields," Neuroscience Letters 379(1), 2005, 1–6. DOI: 10.1016/j.neulet.2004.10.057――二重盲検によるパーシンガー実験の追試失敗と、存在感・神秘体験を予測したのが被暗示性・パーソナリティ特性であったことの根拠。パーシンガー側の反論を含め、論争は未決着である。
補足資料
- John Geiger, The Third Man Factor: Surviving the Impossible (Weinstein Books, 2009)――極限状況で随伴者を感じる現象(サードマン現象)を事例から論じた一般書。シャクルトンの経験を存在の感覚の一事例として扱う背景として参照した。個々の一次記述はシャクルトンらの手記に遡っている。
- Ed Yong ほかによる一般向け科学報道(National Geographic 等)――ブランケ2014年研究の定量値(約3割・5名・病変患者12名)の二次的出所。数値はいずれも二次資料依拠であり、論文本文での確認は行っていない。